スヴャトポルク2世(ウクライナ語:Святополк Ізяславич, ロシア語:Святополк Изяславич, 1050年11月8日 - 1113年4月16日)は、リューリク朝のルーシ系公爵。洗礼名はミハイール。イジャスラウ1世の子、ヤロスラウ賢公の孫。ポロツク公(在位:1069年 - 1071年)、ノヴゴロド公(在位:1078年 - 1088年)、トゥーロフ公(在位:1088年 - 1093年)、キエフ大公(在位:1093年 - 1113年)。母はミェシュコ2世の娘ゲルトルダか妾。

キプチャクとの戦いに明け暮れた。塩の商売を独占し、金貸しを保護したため、キエフの市民の間で嫌われた。キエフの象徴となった聖ミハイール黄金ドーム大聖堂を建立した。病死して聖ミハイール大聖堂で葬られた。

子女

最初の妻はプシェミスル朝出身の女性(ボヘミア公スピチフニェフ2世の娘?)とみられている。以下の子女をもうけた。

  • スブィスラヴァ(1185/90年 - 1108年頃) - ポーランド大公ボレスワフ3世と結婚
  • プレドスラヴァ - ハンガリー公アールモシュ(ベーラ2世の父)と結婚

2番目の妻はポロヴェツ族長トゥゴルカンの娘エレナで、以下の子女をもうけた。

  • ブリャチスラフ(パーヴェル、1104/5年 - 1127年) - トゥーロフ公
  • イジャスラフ(? - 1127年) - トゥーロフ公

以下の子女は側室の子と考えられている。

  • ムスチスラフ(? - 1099年) - ベレスチエ公、ヴォルィーニ公
  • ヤロスラフ(1072年頃 - 1123年) - ヴォルィーニ公

出典


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ロシアの将軍ドミトリー・イヴァノヴィッチ・スヴャトポルク=ミルスキー公爵(18251899)の肖像(エングレーヴィング