シャルル・グレール(Charles Gleyre, 1806年5月2日 - 1874年5月5日)は、スイスで生まれ、フランスで活動した画家。

概要

1843年、ポール・ドラローシュのアトリエを引き継ぎ、後に有名になるクロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーといった若い芸術家たちを生徒として受け入れた。

生涯

スイス・ローザンヌ近郊のシュヴィイで生まれた。彼の両親は、彼が8歳か9歳の時に亡くなり、フランスのリヨンでおじに引き取られて育てられ、産業学校に通った。クロード・ボンヌフォンの下で絵を学び始め、パリに出てから、エコール・デ・ボザールに入学し、ルイ・エルサンに師事した。アカデミー・シュイスにも出席し、リチャード・パークス・ボニントンのアトリエで水彩画の技法を学んだ。イタリアに行き、オラース・ヴェルネやルイ=レオポール・ロベールと知り合った。

ヴェルネの推薦により、アメリカ人John Lowell Jrの東地中海への旅に同行し、そこで見た情景を記録している。1834年にイタリアを発ち、ギリシャ、トルコ、そして1835年11月までエジプトに滞在した後、Lowellはインドに向かったが、グレールはエジプトとシリアの旅行を続け、1838年にフランスに帰国した。カイロでは眼病に侵され、レバノンでは高熱に倒れるなど、リヨンに戻った時は病気で弱っていた。

病気から回復してくると、パリに向かい、アトリエを構えた。『浴後のディアナ』、『若いヌビア人』という2点の装飾的パネルが、初期の名作であるが、これらは後年になるまで注目を浴びなかった。実質的にキャリアの第一歩を築いたのは、1840年のサロン・ド・パリに出品した『聖ヨハネの黙示』であった。続いて1843年の『夕暮れ』で第2級メダルを獲得した(後に『失われた幻影』というタイトルで知られるようになった。)。

こうした成功にもかかわらず、グレールは美術界の競争の第一線から退き、静かに自らの芸術の追求を続けた。1845年に『使徒の別れ』を出品した後は、1849年に『酒神バッカスの巫女たちの踊り』を出品したほかはサロンへの出品をしていない。

1843年に、パリで有力だったポール・ドラローシュのアトリエを引き継ぎ、画塾生への教育を行った。この画塾に学んだ生徒には、ジャン=レオン・ジェローム、ジャン=ルイ・アモン、オーギュスト・トゥールムーシュのほか、後の印象派を形成するモネ、ルノワール、シスレー、フレデリック・バジールなどがいる。グレールは、生徒から授業料を徴収せず、アトリエの家賃とモデル代の分担金を受け取るだけであった。教育方針も、自由であった。

1874年、回顧展に向かう途中に急死した。生涯結婚はしていない。

作品

シャルル・グレールに学んだ美術家

脚注


シャルル・ルクレールとカルロス・サインツはフェラーリの「最大の問題」だとラルフ・シューマッハは主張 Moyens I/O

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